石昆の創業者石川忍は、三重県の北部、焼き蛤で名高い桑名に、石川家の次 男として生まれた。 明治四十四年である。父は呉服、衣料品の仕事に携わっていたが、人望家で世話好きなために、友人の保証問題で商売は行き詰まり、ついに一家離散に追いこまれた。 父は借金の返済と店の再起をはかるために残り、小学校四年を終えた兄は丁 稚奉公に、忍は母や妹と共に母の実家に預けられた。彼はここで学校へあがり、五年生までを過している。やがて再び父と家族が一緒に暮らすことになったが、八人兄弟の生活は苦しく、学校は断念した。 彼は腰に通い帳をぶらさげ、あちこちの店を手伝って歩いた。 ちょうどこの頃、手伝いに行ったある店で、万古焼の大きな荷物を運ぶ途中、 誤って用水路に落ちてしまった。人の手を借りて引き上げたが、中身はもう使い物にならない。店の土間に這いつくばって詫びたが、店の主人は許してくれない。頭を擦りつける土間に涙がこぼれおちた。品物の代金は弁償することになった。しかし父母に負担をかけることはできない。家に帰りづらかった。 忍はいつしか砂浜に立って海を眺めていた。 春の伊勢湾はのどかな陽光に映えていた。海が好きだった。汐風が好きだった。汐の香りが好きだった。
関東大震災の翌年、忍は名古屋で乾物屋を営む叔父の店に手伝いに入った。 十三才の丁稚小僧であった。叔父の店は乾物のほかに海産物を扱う問屋であった。 彼と昆布との最初の出遇いであり、商人としての出発でもあった。 荷車に一ぱいの乾物や海産物を積んで、得意先の小売店をまわり、品物を届け、翌日の注文を受けてくる。小柄な彼には重労働だった。得意先で、いつもおぼろ昆布一箱(五貫目)ずつ買ってくれる店があった。 おぼろ昆布は削り方や職人の腕で品質や価格に差が出てくる。名の通った一流品でなくても安くて高品質なものに人気があった。「良いものを造り、安く売れば必ず買ってくれる……。」商哲学の開眼であった。 「それならいっそ昆布を加工する技術を憶えよう。」そう思うと矢も楯もたまらず、当時知られた京都の削り昆布店、「H商店」に住みこんだ。しかし一向に技術を教えてはくれなかった。昼間見た職人たちの手先や体の使いこなしを真似て深夜の独習がつづいた。 それは不撓不屈ともいえる必至の歳月だった。腕があがるにつれ、彼はH商店の番頭になっていた。技術を修得しおえた彼は、お礼奉公を勤め名古屋の中村区に小さな加工工場を造り、離ればなれになっていた父母、兄弟を呼び寄せ永年の夢であった独立を果した。時に二十四才の春であった。 徐々に昆布の信用もでき、「廉価良品」の噂は広まり順風満帆といえた。 昭和十八年、忍は陸軍に召集され、北支各地を転戦し、幾度か生命の危機にさらされたが奇蹟ともいえる僥倖(ぎょうこう)が重なり終戦を迎えた。 名古屋で再び昆布を削りをはじめ、昭和二十六年、石川昆布有限会社を設立したが、原料の入手難で一進一退の苦難の時代は昭和三十年頃まで続いた。技術と努力は報われ、さらに好機に恵まれ、美和工場を建設した。この頃、石川昆布の汐昆布「やなぎばし」は、各地の展覧会や審査会で数多くの受賞に輝いた。 石昆では、天然の昆布以外は絶対に使わない。養殖昆布と見かけは変わらないが味やコクには大きなへだたりがある。また昆布の処理も他と大きな違いがある。昆布を煮るにも、他の約三倍の時間をかける。この工程の差と厳選された原料の違いが石昆の味の秘密である。とにかく注文が多いと、出荷を急ぐあまり工程を省略することになりやすい。これは絶対に許されない。数が間に合わなくても信用される品をお届けしたい。石昆の憲法である。
名古屋を中心とする全国各地の有名百貨店や専門店に石昆の昆布加工品は並べられ、品質と独特の味付け技術は高い評価を得、今日の信用に至っている。 いま、グルメ志向の高まっている日本にはいわゆる「うまいもの」は無数にある。 食文化の叫ばれている現代、食欲を満たす事欠かないメニューは氾濫している。 石昆の製品には、そうしたコンセプトを超える何かがある。壮絶ともいえる創業者の半生と、そこから生まれた厳しい求道の精神、信念が、味の名品となって迫って来る。 少年時代に開眼した石川忍の哲学は、いまも石昆の製品の中に底光りしながら流れつづけ類いまれな孤高の味となって活きつづけているのである。
~石昆五十年誌より抜粋~ 監修 飯塚 伎(講談社・小説現代受賞作家)
汐風の詩 全文はこちら »
石昆の創業者石川忍は、三重県の北部、焼き蛤で名高い桑名に、石川家の次
男として生まれた。
明治四十四年である。父は呉服、衣料品の仕事に携わっていたが、人望家で世話好きなために、友人の保証問題で商売は行き詰まり、ついに一家離散に追いこまれた。
父は借金の返済と店の再起をはかるために残り、小学校四年を終えた兄は丁
稚奉公に、忍は母や妹と共に母の実家に預けられた。彼はここで学校へあがり、五年生までを過している。やがて再び父と家族が一緒に暮らすことになったが、八人兄弟の生活は苦しく、学校は断念した。
彼は腰に通い帳をぶらさげ、あちこちの店を手伝って歩いた。
ちょうどこの頃、手伝いに行ったある店で、万古焼の大きな荷物を運ぶ途中、
誤って用水路に落ちてしまった。人の手を借りて引き上げたが、中身はもう使い物にならない。店の土間に這いつくばって詫びたが、店の主人は許してくれない。頭を擦りつける土間に涙がこぼれおちた。品物の代金は弁償することになった。しかし父母に負担をかけることはできない。家に帰りづらかった。
忍はいつしか砂浜に立って海を眺めていた。
春の伊勢湾はのどかな陽光に映えていた。海が好きだった。汐風が好きだった。汐の香りが好きだった。
関東大震災の翌年、忍は名古屋で乾物屋を営む叔父の店に手伝いに入った。
十三才の丁稚小僧であった。叔父の店は乾物のほかに海産物を扱う問屋であった。
彼と昆布との最初の出遇いであり、商人としての出発でもあった。
荷車に一ぱいの乾物や海産物を積んで、得意先の小売店をまわり、品物を届け、翌日の注文を受けてくる。小柄な彼には重労働だった。得意先で、いつもおぼろ昆布一箱(五貫目)ずつ買ってくれる店があった。
おぼろ昆布は削り方や職人の腕で品質や価格に差が出てくる。名の通った一流品でなくても安くて高品質なものに人気があった。「良いものを造り、安く売れば必ず買ってくれる……。」商哲学の開眼であった。
「それならいっそ昆布を加工する技術を憶えよう。」そう思うと矢も楯もたまらず、当時知られた京都の削り昆布店、「H商店」に住みこんだ。しかし一向に技術を教えてはくれなかった。昼間見た職人たちの手先や体の使いこなしを真似て深夜の独習がつづいた。
それは不撓不屈ともいえる必至の歳月だった。腕があがるにつれ、彼はH商店の番頭になっていた。技術を修得しおえた彼は、お礼奉公を勤め名古屋の中村区に小さな加工工場を造り、離ればなれになっていた父母、兄弟を呼び寄せ永年の夢であった独立を果した。時に二十四才の春であった。
徐々に昆布の信用もでき、「廉価良品」の噂は広まり順風満帆といえた。
昭和十八年、忍は陸軍に召集され、北支各地を転戦し、幾度か生命の危機にさらされたが奇蹟ともいえる僥倖(ぎょうこう)が重なり終戦を迎えた。
名古屋で再び昆布を削りをはじめ、昭和二十六年、石川昆布有限会社を設立したが、原料の入手難で一進一退の苦難の時代は昭和三十年頃まで続いた。技術と努力は報われ、さらに好機に恵まれ、美和工場を建設した。この頃、石川昆布の汐昆布「やなぎばし」は、各地の展覧会や審査会で数多くの受賞に輝いた。
石昆では、天然の昆布以外は絶対に使わない。養殖昆布と見かけは変わらないが味やコクには大きなへだたりがある。また昆布の処理も他と大きな違いがある。昆布を煮るにも、他の約三倍の時間をかける。この工程の差と厳選された原料の違いが石昆の味の秘密である。とにかく注文が多いと、出荷を急ぐあまり工程を省略することになりやすい。これは絶対に許されない。数が間に合わなくても信用される品をお届けしたい。石昆の憲法である。
名古屋を中心とする全国各地の有名百貨店や専門店に石昆の昆布加工品は並べられ、品質と独特の味付け技術は高い評価を得、今日の信用に至っている。 いま、グルメ志向の高まっている日本にはいわゆる「うまいもの」は無数にある。
食文化の叫ばれている現代、食欲を満たす事欠かないメニューは氾濫している。
石昆の製品には、そうしたコンセプトを超える何かがある。壮絶ともいえる創業者の半生と、そこから生まれた厳しい求道の精神、信念が、味の名品となって迫って来る。
少年時代に開眼した石川忍の哲学は、いまも石昆の製品の中に底光りしながら流れつづけ類いまれな孤高の味となって活きつづけているのである。
~石昆五十年誌より抜粋~
監修 飯塚 伎(講談社・小説現代受賞作家)
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技術と努力は報われ、名古屋を中心とする全国各地の有名百貨店や専門店に
石昆の昆布加工品は並べられ、品質と独特の味付け技術は高い評価を得られ、
今日の信用に至っています。